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感謝の日

 山荘に着いたのは、昼少し前。家族三人、昼食をとり、午後の二時ころから、舗装路の両側の草刈り。暗くなる五時まで。26日は、月歴11月11日。光の澄んだ十一夜の月が、やや東南の空に浮いていた。ゆず風呂に入る。夜は、今期はじめての湯たんぽ。

 27日の朝八時半頃、東の山を歩いたら、コゲラが、音を立てて赤松の幹をつついていた。それから小一時間、谷の湿地に添う道の草刈り。山裾の梅花ツツジの冬芽の色が、薄紅であることに気づいた。

 妻と娘、わたし。三人で買い物にでかける。まず豆腐屋さんで豆腐を。あたたかな豆乳は、三人、その場で飲む。厚揚げにおからのおみやげ。道の駅では、Sさんに出会う。半年ぶりくらいだろうか。庭師の仕事で、忙しいという。身体に良いからと、干しなつめ。くすり味のする甘さ。

 農協の次は、オオイシさん宅へ。玄米20キロを買う。湧き水24リットル。規格外れの山芋2本。ついでに、山で新たに見つけた野草の名を尋ねたら、ヒメカンアオイ。

 いつもとおりの週末と思っていたのに、こんなにも、感謝すべきゆたかな日であったと、今頃になって気づかされた。

 今回が今年最後の記述になります。みなさん、良い年をお迎えください。


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雪の風景

このところ、とても冷たい日が続いています。しかも、土曜日は雪でした。豊田市では、昼頃には解けてしまいましたが、作手はさすがにそういうわけにはいきません。路面も凍っているだろうと思い、結局山荘にはゆきませんでした。
作手の雪の様子は、こちらをごらんください。

豊川リバーウォーク「作手地区の初雪」
雑木林で森を楽しむ「一夜あけたら一面の銀世界」

わたしは、雪自体には、なつかしさを感じます。子供の頃の思い出もあるでしょうし、なにより若かった頃、東北の岩手県、盛岡市に7年ほど住んでいたからです。

生活の便、という点から見れば、雪はやっかいものにちがいありません。現に愛知県の都市部では、雪に降られると、まず車が動きません。配達業務には、おおいに支障があります。

それでも、雪ふる地方においては、いったん生活の中に雪を取り込んでしまえば、それなりの愛着が湧きます。何年か前、温暖化のせいで、盛岡に雪が積もらない年がありました。それをはがきで教えてくれた人も、わたしも、雪のない盛岡なんてと、少々寂しい思いがしたものです。

働いているせいもあり、わたしはいまだ雪の作手に滞在したことがありません。一度ゆっくりと、山荘に降り積もる雪の風景を眺めてみたいものだと、思っています。


火葬場の二次林

10日から12日まで、海辺の町の葬儀に参列しました。妻がお世話になった方が亡くなったのです。娘も連れて、家族三人での出席となりました。そのさいの、火葬場の自然環境について、書いてみましょう。

火葬場は、それのみが独立して、丘状の山の中にありました。山全体は茶色にもみじする、雑木の森。その森の中に、火葬場の敷地がほぼ四角な形で存在します。周囲は小公園状に整備されていました。焼き上がるまでの時間つぶしに、外を歩いてみました。

炉と休憩室を左右に配した建物の外、手前が駐車場。向かって右側が芝生の広場、左側が石造りの川と橋を配した庭園風。あまり手入れされているふうでもなく、全体にさびしげな感じです。

芝生広場と庭園の植樹は、桜にもみじといった定石のもの。むしろ目を引いてのは、それらの周囲、つまり山の雑木の森との境付近に立つ木々でした。海沿いの町らしく、暖地系の常緑樹を中心として、名も分からないさまざまな木がありました。自生のものもあるかも知れませんが、奥の雑木の森を見れば、ほとんどは植えられたものだと推測されます。

残念なことは、境に沿って帯状に植えられたこれらの木々が、手入れもされず放置され、茂るがままに混み合い、藪となっていたことです。くずの葉と蔓に覆われているところさえあります。いわば藪垣に囲まれた、火葬場という情景です。

さて百人近い人々が居たのですが、散策する人の姿は皆無でした。入り口近くで談笑する人も少しはいましたが、ほとんどは休憩室で過ごしていました。仮に、藪が整理され、奥の雑木の森に行き来する散策路でもあれば、あるいはそぞろ歩く人もいるかも知れません。

山の雑木の森は、おそらく半世紀近く経た二次林。これくらいの年数が経つと、植物相がほぼ整い、見た目もすっきりします。藪となっているところは、植樹後数年近くでしょうか。一種の人工林であり、計画的な人の手が入らないと、藪状態からはなかなか抜けられないと、思いました。


「ベン・ハー」における自然観

昨日、土曜は昼から雨の予報でした。それで作手には行かず、一日家籠もりをしました。朝はそれなりにやることがあったのですが、午後からは何の予定もなし。映画でも見ようかと、パソコンでGyaOを開いたら、なんと「ベン・ハー」を放映中。四時間近くの大作なので、この機会を逃す手はなしと、見ました。

あまりにも有名な、歴史的な名作、大作。なんども見ています。最初に見たのは、四十五年くらい前。70ミリの大画面で一度ならず見ました。その後は、テレビでも何度か放映されましたから、こちらも見ました。そして今回は、パソコンの小さな画面で。

最初に見たのは、中学生の頃弟と共に、たぶん母に連れられてのことだったと思います。テレビでは、寝ころびながら、妻や娘と見ました。そして今は、こころおきなく泣きながら、ひとりでパソコンの前。

この歳になると、見方もそれなりに深化するようです。あらためて、実に良くできた映画だと感心させられました。チャールトン・ヘストン、まさにはまり役ですね。憎しみ、怒り、苦悩、そして崇高な愛を表現できるのは、おそらく彼以外にはありえないのではないでしょうか。

このブログでは、映画最後の場面についてのみ、ふれておきましょう。磔刑にされたイエスの血が、雨とともに荒野の地を流れて行きます。暗い画面はわずかな明かりのみ。そしてベン・ハーの荒れ果てた旧宅。恵みを得た彼らが抱き合い、ふたたび十字架の丘の場面で、終幕となります。物語全体をつらぬくローマに象徴される絢爛豪華さは、最後の場面にはみじんもありません。暗示的な終幕です。

荒野を流れる血は、イエスの契約の血を。荒れ果てた旧宅は、現世的な富と栄光のはかなさを。わずかに明かりの差す十字架の丘は、再生を。それぞれ暗示しているものと思われます。それにしても、けっして美しい情景とはいえません。

映画自体、自然描写が無いと言って良いほどです。もちろん自然風景があってこそ人間の生活が成り立つのですから、無いはずは無いのですが、映画はあくまで人間ドラマとして描かれていて、そこに自然描写が入り込む余地がないのです。これはいかにも、欧米的な感性だなと感じました。もっとも欧米的感性と言っても、日本人であるわたしから見た、欧米観に過ぎませんが。

「ベン・ハー」の物語は、イエスの生涯を前提にして成り立っています。ではその聖書の自然観はどうなのか。イエスの自然観はどうなのか。これは一般的には、人間中心の自然観とされていますが、わたしは少し異なった考えを持っています。聖書の自然観は、どちらかと言えば、欧米的な自然観ではなく、むしろ日本人が抱く自然観に近いのではないかと、思っています。

さて今日は、風邪は冷たかったのですが、作手へ。「すずかぜの里」で感謝祭がありましたので、野菜などいっぱいに買いました。山荘のある山に入ると、空を雲が走っていました。妻と山を小一時間ほど歩きました。空を眺め、葉を落とした木々、散り残る葉、冬芽、黒い実、赤い実など、いろんな風景を眺めました。ただただ感動させられました。

プロフィール

カイ

Author:カイ
奥三河・作手郷の風景を、「テレジアの森」から、お届けします。2010年9月より、娘の生活、生い立ちをとおして、より深い心の風景としての作手郷を紹介します。

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